【書評】愛するということ/エーリッヒ・フロム

<初めての書評、その経緯> 


ちょうど1週間前、ある友人に東京で会い色々と将来の夢や今お互いが抱えていることを話した。学生時代からの友人で、3月ごろから話せていなかっただけに、久しぶりに会えてよかったなと思ったのだが、その時衝撃を受けたことが2つある。

 

①「もっと読んだ本とか思考を共有してほしい」

こんなことを言われた。確かに人と会う際には必ずと言っていいほど最近読んだ本の話をする、が外向けに記事を書いたことはない。

②彼が数年間付き合っていた彼女と別れるかもしれないということ

彼も、その彼女もどちらも知っていただけにこの話の衝撃を受け止めきれない自分がいた。「人を想う」って、「ずっと誰かを、何かを大切にする」ってなんなんだろう。

そもそもなんでそう想うんだろう、そんなことをぐるぐる考えながら今回の本に出会った。

 

正直な話、いつもはより硬めな本を読むため、初めての書評記事をまさかこの本で始めるとは思わなかったが、これも人とのご縁だと思う。
この本を手に取ってくれる人が増えることで、「人が人を愛するってなんなんだろう」とか「自分は人を愛したいのか?それとも愛されたいのか?」という問いに悩む人に幾らかのヒントを与えてくれると信じてやまない。

 

<エーリッヒ・フロムとは>

フロムは1900年に誕生したユダヤ人であり、主にドイツで精神科学分析を学んだ。彼の理論のベースはフロイトであるが、単なる引用ではなくマルクスウェーバーといった他の哲学とのシナジーを目指した。いわゆる「新フロイト派」の一人でもあり、1980年メキシコにて生涯を遂げた。主な著書は他に「自由からの逃走」「生きるということ」「反抗と自由」などがある。

 

<テーマについて>

・まず注意しなければいけないのが、再三本文でも警告されているが、この本は「どうやったら異性と上手く交際できるか」という本ではないということである。(それは愛するということではなく交際するということなのだから)

さらにお伝えしたいことがある。

ぜひ一度フロム自身が書いた「まえがき」に目を通してほしい。そこにはフロムからの強烈とも言えるメッセージがまっすぐに綴られている。

この本は読者にこう訴える -自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしても必ず失敗する。満足のゆくような愛を得るためには隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律を備えていなければならない。 (中略)実際、真に人を愛することのできる人を、あなたは何人知っているだろうか。

これはその一部引用だが、強烈なメッセージである。全文を読んだ後にここに立ち返ると何をフロムが訴えかけようとしていたのかがぼんやりわかるのではないか。

この本には「愛の定義」「人と繋がること」が随所に書かれているが、今僕が感じるテーマは少しだけ違う。(あくまで僕が感じたことであることに留意してほしい

それは「今を必死に生きるということ」が最も重要であるということだ。

これは、映画「いまを生きる」「時をかける少女」「風立ちぬ」に始まり「トゥルーマン・ショー」「ターミネーター」に至るまであらゆる映画シーンで主張されてきたテーマ(ここ1,2年では「君の膵臓を食べたい」や「素晴らしきかな、人生」にも見られる)だと思うが、この本が伝えたいことはそれらと同じではないと思う。

本当はその詳細を全て書きたいのだが、これ以上書いてしまうと読むという、人に許された最高に贅沢な行為の1つの楽しみを阻害してしまう。

それは僕の本意ではない。ぜひ購入もしくは借りて全文を読んでほしい。

 

<構成>

第一章:愛は技術か

第二章:愛の理論

  1. 愛、それは人間の実存の問題にたいする答え
  2. 親子の愛
  3. 愛の対象

第三章:愛と現代西洋社会におけるその崩壊

第四章:愛の修練

 

フロムは第一章で巷に溢れる「愛」へのいくつかの誤解を解こうとする。
1つ目は愛の問題とは愛される問題と思われていること。
2つ目は、人は愛することは至極簡単だと思っていて、愛するにふさわしい相手を見つけられないだけと思っていること。
3つ目は恋に落ちるという瞬間刹那な感覚を、愛のなかに留まっているという持続的な状態と誤解していること。
誰もがともすれば「普通」と認識していることに彼は異を唱える。そして愛とは何か、それは実存の問題、存在の問題であると、第二章で本題に切り込んでいく。

第二章ではフロムは主に「孤立」とそれに伴う「合一」に焦点を当てる。人は生まれながらにして孤立であるのかと問いを投げかけ、宗教的、社会的に論証/反証していく。社会への鋭い洞察には目を瞠るし、文章構造も非常に美しいと感じる。

その次に二節で彼は親子での愛に触れる。はっきりそう書かれているわけではないが、一般的には子どもが一番早く愛を感じる瞬間は親子愛だと言えるかもしれない。母親からの愛と父親からの愛、その中身を分解し、あるべき姿を考察する。

そこまで客観的に見つめ、愛を「世界全体に対してどう関わるかを決定する性格の方向性」と結論づけたのち、第二章の三節では愛の対象に目を移す。「何を愛するか」によって愛するという行為の中身が異なるからだ。
彼はそこで5つの愛をあげてそれが何を指すのか、どういう状態なのかを述べる。

第三章では二章のはじめと同じく、再び現代批評が繰り広げる。現代文明とそこに住まう我々に対して。根本的な欲求に気づいておらず、孤独から目を背ける多くのサービスに没頭し、ただ「楽しんでいる。」必然的に愛もそれに従うしかなく、本来の形を失いつつあるというわけだ。
神経症や愛情障害や、自己中心的な愛の形などの社会病理のメカニズムへも切り込んでいく。

では、どうするべきなのか、という問いに対してのフロムの答えが第四章に書かれているが、ここではあえて解説をしない。
はじめに、と繋がるところも多く、僕の冒頭の一文のことだろうと薄々感じている人も多いだろうが、僕の思考をトレースしたところで意味はあまりない。僕自身も拾うことができていない文脈があるし、彼がユダヤ人で第二次世界大戦下を生きたという背景を十二分に加味できているとは言い難いからだ。

 

 

<終わりに:感想を付随して>

初めて書評を書いてみて、難しさを痛感した。どこまでを書けば書評と言えるのか、読書意欲を阻害していないか、読んだみなさんが「読みたい!」と思っていただけるのだろうか。それは読者の皆さんにお任せする。

 

何点か読んでいて思ったことをあげる。

まず、この精緻な文章を1956年に書き上げた筆者自身に畏敬の念を感じ得ない。愛についてこれほどまでに考え抜いた本を僕は他に知らない。特に愛の対象の箇所での「異性愛」の箇所は読んでいて心が震えるほどいい文章だった。

また、純粋に気になるのだが、もし今フロムが存命だとした時、LGBTのカップルの間でも父性愛と母性愛の視点から考察をするのだろうか。愛の種類が異なるとは全く思わないが、彼がどのように同性愛を位置づけるかが非常に気になるところである。

情報工学やバイオテクノロジーが発展していく中で、愛の形は分岐しつつあると思う。 その時代の中でこの本が果たす役割がもう一度見直されていくことを願って。