【書評】夜と霧/ヴィクトール・E・フランクル

<この本を選んだきっかけ>

 

きっかけは2つある。

1つは働き始めてからというもの、「生きる」ということをよく考えていたから。

働けなくなったら

「生きる」ことは難しいのかもしれないし、あれだけ考えるのが好きだったのに、仕事か

ら帰ってきてみるとどんな簡単な本と向き合う元気さえ起こらない日もある。

そんなとき、「生きる」ことは難しい、「よく生きる」ことはさらに難しい、と思う。

最近になって心の余裕が出てきて、この本を再読してみた。

その時こう思った。

この本が著す「生きる」ことは特殊なのかもしれない。だが同時に何か時代を超えて、共通したものがあるのだろう。何故だか分からないが改めて感動した。

 

2つ目は愛すべき後輩がこの本を知らなかったからだ。

もったいないなと思った。「生きる」ことを考えたい時、この本はきっと我慢強くも力の籠った道しるべになってくれる。

今、毎日が苦しい人はぜひ読んでみてほしい。心が洗われるわけではないが、じんわりと力が湧いてくると思う。

 

<ヴィクトール・E・フランクルとは>

1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学に在学中、精神学者アドラーフロイトに師事し、主に精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチス強制収容所に送られた体験をもとに「夜と霧」を執筆。戦後、1955年よりウィーン大学にて教授を務める。
人間が存在することの意味や意志を重視し、それを心理療法へ活かすという独自の手法を確立。1997年9月にその生涯を終えた。

 

<テーマについて>

「言語を絶する感動」と評された本書は、フランクルが実際にアウシュビッツ収容所の支所で経験した実体験に基づいている。

フランクルは序章にて、「これは事実ではない、体験記だ」と述べる。しかもこれは心理学者が「働いた」わけではなく、「体験した」のだと。この違いは大きい。

彼自身も述べるが、この本の目的が、ごく普通の被収容者が経験した収容所生活を書き記すことである以上、それは自然なことなのかもしれない。

なぜこんな本を書いたのか、これがテーマと言えるのかもしれないが、フランクルは丁寧なことにそこにも触れる。

その意義は、強制収容所での生活をみずからの経験として知っている読者にとってとそうではない読者にとってでは異なる。第一の読者グループにとっての意義は、彼らが身をもって経験したことがこんにちの科学で解き明かされることになり、第二のグループにとっては、それが理解可能なものになる、ということだ。つまり部外者にも、他者である被収容者の経験を理解できるようにし、ひいてはほんの数パーセントの生き延びたもと被収容者と、彼らの特異で、心理学的に見てまったく新しい人生観への理解を助けることが、ここでの眼目なのだ。

周りを見れば、本当に様々な人生観がある中で、

"特殊な収容所での経験"は必ずどんな人が人生観を考えるにあたって意味がある、

そうフランクルは言い切っている。

この本のメッセージをどう受け取るか、それは読者の皆さん次第だ。

生きるとはなんなのかという僕自身も感じている問いに対して、ヒントのようなものが浮かび上がってくれるといいなと思う。

 

そしてこの本を読んだのちに、その他の心理学者や哲学者、作家、あるいは自分の周りの上司や同僚、家族や友人に至るまで、その人の人生観に想いを馳せてみてほしい。

 

<構成>

(序章として)-心理学者、強制収容所を体験する

第一段階 収容

第二段階 収容所生活

第三段階 収容所から解放されて

 

この構成を一見すると分からないかもしれないが、この本の内容は圧倒的に”第二段階”の量が多い。

収容所を体験しているその時に何を考えていたか、何を感じていたか、は僕も含めて体験したことがない人にとっては貴重である。

 

以下それぞれの構成を見ていく。

”心理学者、強制収容所を体験する”では、主に本書の構成の説明がなされる。前節の<テーマについて>でも触れた本書のテーマやなぜこの本を書くのか、どういうスタンスで執筆に望んだのかが記されている。

ただ僕が最も心を動かされたのは次の一文だ。

 

収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで両親を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。(中略)とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人ほど帰ってこなかった、と。

 

いわゆる「いい人」ほど命を落とさざるを得ないという事実に戦慄した。僕たちが今まで無意識に築いてきた道徳や文化は一切反映されないし、むしろ正反対のことが正とされる。人を虐げた者、見つけ出した者、殺害した者が評価される世の中だったのだと痛感した。

「正しさ」にはいくつもの文脈があって、もしかするといまこの瞬間僕たちが当たり前だと思っている価値観さえも、未来の価値観からすると「信じられない」と言われることもあるかもしれない。

フランクルは、序章の最後に、”自分を晒け出す恥をのりこえ、勇気をふるって告白した。いわばわたし自身を売り渡したのだ”と結ぶ。

 

これを皮切りに本論に入る。

第一段階では、収容されたときのことを綴る。アウシュビッツ駅でのショック、初めて出会った「エリート」と呼ばれる新しい収容者の手荷物の貴重品などを没収する存在、そして最初の選別。

この本では数え切れないくらい人との別れ(=死)が出てくるが、本当に簡単に訪れる。

フランクルは医学者でもあるので、収容されながらも多大な好奇心を持っていた。そのおかげなのか、驚くべきことに収容所での不健康、不衛生な生活の中で体を壊すことは皆無だったらしい。綺麗にしすぎた結果、風邪にかかりやすくなったと言われたりする現代人からすると驚きですらあるが。

 

彼の心理学的研究では「自殺」も一つのテーマであった。収容所では鉄条網に触れるだけで死ぬことができる。いわゆる”収容ショック”に陥るものは死を恐れず、ガス室さえも自殺のための部屋と考える傾向にあったという。

 

第二段階では収容後3日以後を主に取り上げる。

感情の消滅、終わらない苦痛、人格否定、愚弄、飢え。ありとあらゆる「痛み」が彼や他の収容者を襲う。

人間として扱われなくなることはこんなにも辛いのか、と僕は目を瞠った。

その後、この節では収容者同士のコミュニケーションに話題を移す。
政治と宗教の話、神の話、霊的なもの。

様々な現象や事象を記述したのち、最も重要なこと、内面の感覚の話に目を移す。

苦しい中で誰を想うか、縋るものの重要性、ふと気づく感動的な世界、幻想、ユーモア、芸術。

病を患ったほうが実は生存率が高くなるという不可思議、続く2択の選択(間違えると死につながった)といった体験からくる話でもある。

 

また、フランクルは体験を多々書く中で、感情の消滅の要因と「自らという存在」への考慮、人間の苦悩と自由、想うこと、生きる意味、人の経験などを分析する。

流石に分析事項が多いので、全てを解説することは難しい。今回は”感情の消滅”と”生きる意味の考え方”について少し触れることにする。

「感情の消滅の要因」の一つの部分は収容所の厳しい環境や監視兵などのシステムである。加えてもう一つここで述べられるのが、肉体的な要因だ。

肉体的要因の筆頭は空腹と睡眠不足と彼は喝破する。空腹はもちろんだとして、収容所では睡眠スペースが極端に狭かったこと、シラミなど衛生環境が過酷すぎた。それを和らげる役割のニコチンやカフェインも皆無だったのだ。

 

”生きる意味の考え方”では、従来の考え方からのコペルニクス的転回を提案する。

多くのことを解説するのは好きではないので、一文のみ抜粋する。これはどういう意味なのか読んで考えてみてほしい。

 

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。

 

存在することの意味は日常によって刻一刻と変わっていく。そんな状況にあって、この一文を見て、いまあなたは何を想うのだろう?

 

そして第三段階では文字通り、収容所から解放された真理を観察する。

彼を含めた解放収容者は「何も感じない。」うれしいこと、悲しいことがどういうことなのか、わからないのだ。心理学では”離人症”というらしい。

収容所で極端な生活を強いられていたせいか、人はその跳ね返りに多くの反応を見せる。抑圧から解放されることで心が歪むこと、不満、失意。

第三段階の最後、フランクルはなぜあの悲惨な時間を耐え忍ぶことができたのか心底わからないと記す。

いつかあの収容所で過ごした日々が悪夢以上の意味を持つことを祈る、と結んでいる。

 

 

<終わりに:生きること、悩むこと>

今回僕は自分の解釈を書くことをあえて多くの場面で避けた。この本に書いてあることをどう消化するべきか分からなかったからだ。

思えば僕らは生きること、死ぬことから離れすぎているのかもしれない。

誤解を恐れずいえばあらゆるものを「除外」し「輸出している」と思う。

「生きること、死ぬこと」を最も身近に感じた時をはっきりとは皆思い出せないのではないのだろうか。

特定の場所、病院や墓地に行ったりしたことを除けば、である。

だからなんだというつもりはない。ただだからこそ、この本は現代の人の根っこを揺さぶるのではないかと思うのだ。同時に価値があるとも。

 

「生きる」とはなんなのか、その答えはそれぞれが持つべきもので絶対解などあり得ないと思う。ただ、何のために生きるのか、何があなたを生きることへ誘うのかという考え方はこれから武器になってくれるのではないかと思う。

 

ところどころ本書の中に仕事がハードな現代へのアドバイスとしてもかなり有用なものがあったと思う。

いろんな人に借りて、もしくは購入してよんでほしい。

 

 

 

 

【書評】愛するということ/エーリッヒ・フロム

<初めての書評、その経緯> 


ちょうど1週間前、ある友人に東京で会い色々と将来の夢や今お互いが抱えていることを話した。学生時代からの友人で、3月ごろから話せていなかっただけに、久しぶりに会えてよかったなと思ったのだが、その時衝撃を受けたことが2つある。

 

①「もっと読んだ本とか思考を共有してほしい」

こんなことを言われた。確かに人と会う際には必ずと言っていいほど最近読んだ本の話をする、が外向けに記事を書いたことはない。

②彼が数年間付き合っていた彼女と別れるかもしれないということ

彼も、その彼女もどちらも知っていただけにこの話の衝撃を受け止めきれない自分がいた。「人を想う」って、「ずっと誰かを、何かを大切にする」ってなんなんだろう。

そもそもなんでそう想うんだろう、そんなことをぐるぐる考えながら今回の本に出会った。

 

正直な話、いつもはより硬めな本を読むため、初めての書評記事をまさかこの本で始めるとは思わなかったが、これも人とのご縁だと思う。
この本を手に取ってくれる人が増えることで、「人が人を愛するってなんなんだろう」とか「自分は人を愛したいのか?それとも愛されたいのか?」という問いに悩む人に幾らかのヒントを与えてくれると信じてやまない。

 

<エーリッヒ・フロムとは>

フロムは1900年に誕生したユダヤ人であり、主にドイツで精神科学分析を学んだ。彼の理論のベースはフロイトであるが、単なる引用ではなくマルクスウェーバーといった他の哲学とのシナジーを目指した。いわゆる「新フロイト派」の一人でもあり、1980年メキシコにて生涯を遂げた。主な著書は他に「自由からの逃走」「生きるということ」「反抗と自由」などがある。

 

<テーマについて>

・まず注意しなければいけないのが、再三本文でも警告されているが、この本は「どうやったら異性と上手く交際できるか」という本ではないということである。(それは愛するということではなく交際するということなのだから)

さらにお伝えしたいことがある。

ぜひ一度フロム自身が書いた「まえがき」に目を通してほしい。そこにはフロムからの強烈とも言えるメッセージがまっすぐに綴られている。

この本は読者にこう訴える -自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしても必ず失敗する。満足のゆくような愛を得るためには隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律を備えていなければならない。 (中略)実際、真に人を愛することのできる人を、あなたは何人知っているだろうか。

これはその一部引用だが、強烈なメッセージである。全文を読んだ後にここに立ち返ると何をフロムが訴えかけようとしていたのかがぼんやりわかるのではないか。

この本には「愛の定義」「人と繋がること」が随所に書かれているが、今僕が感じるテーマは少しだけ違う。(あくまで僕が感じたことであることに留意してほしい

それは「今を必死に生きるということ」が最も重要であるということだ。

これは、映画「いまを生きる」「時をかける少女」「風立ちぬ」に始まり「トゥルーマン・ショー」「ターミネーター」に至るまであらゆる映画シーンで主張されてきたテーマ(ここ1,2年では「君の膵臓を食べたい」や「素晴らしきかな、人生」にも見られる)だと思うが、この本が伝えたいことはそれらと同じではないと思う。

本当はその詳細を全て書きたいのだが、これ以上書いてしまうと読むという、人に許された最高に贅沢な行為の1つの楽しみを阻害してしまう。

それは僕の本意ではない。ぜひ購入もしくは借りて全文を読んでほしい。

 

<構成>

第一章:愛は技術か

第二章:愛の理論

  1. 愛、それは人間の実存の問題にたいする答え
  2. 親子の愛
  3. 愛の対象

第三章:愛と現代西洋社会におけるその崩壊

第四章:愛の修練

 

フロムは第一章で巷に溢れる「愛」へのいくつかの誤解を解こうとする。
1つ目は愛の問題とは愛される問題と思われていること。
2つ目は、人は愛することは至極簡単だと思っていて、愛するにふさわしい相手を見つけられないだけと思っていること。
3つ目は恋に落ちるという瞬間刹那な感覚を、愛のなかに留まっているという持続的な状態と誤解していること。
誰もがともすれば「普通」と認識していることに彼は異を唱える。そして愛とは何か、それは実存の問題、存在の問題であると、第二章で本題に切り込んでいく。

第二章ではフロムは主に「孤立」とそれに伴う「合一」に焦点を当てる。人は生まれながらにして孤立であるのかと問いを投げかけ、宗教的、社会的に論証/反証していく。社会への鋭い洞察には目を瞠るし、文章構造も非常に美しいと感じる。

その次に二節で彼は親子での愛に触れる。はっきりそう書かれているわけではないが、一般的には子どもが一番早く愛を感じる瞬間は親子愛だと言えるかもしれない。母親からの愛と父親からの愛、その中身を分解し、あるべき姿を考察する。

そこまで客観的に見つめ、愛を「世界全体に対してどう関わるかを決定する性格の方向性」と結論づけたのち、第二章の三節では愛の対象に目を移す。「何を愛するか」によって愛するという行為の中身が異なるからだ。
彼はそこで5つの愛をあげてそれが何を指すのか、どういう状態なのかを述べる。

第三章では二章のはじめと同じく、再び現代批評が繰り広げる。現代文明とそこに住まう我々に対して。根本的な欲求に気づいておらず、孤独から目を背ける多くのサービスに没頭し、ただ「楽しんでいる。」必然的に愛もそれに従うしかなく、本来の形を失いつつあるというわけだ。
神経症や愛情障害や、自己中心的な愛の形などの社会病理のメカニズムへも切り込んでいく。

では、どうするべきなのか、という問いに対してのフロムの答えが第四章に書かれているが、ここではあえて解説をしない。
はじめに、と繋がるところも多く、僕の冒頭の一文のことだろうと薄々感じている人も多いだろうが、僕の思考をトレースしたところで意味はあまりない。僕自身も拾うことができていない文脈があるし、彼がユダヤ人で第二次世界大戦下を生きたという背景を十二分に加味できているとは言い難いからだ。

 

 

<終わりに:感想を付随して>

初めて書評を書いてみて、難しさを痛感した。どこまでを書けば書評と言えるのか、読書意欲を阻害していないか、読んだみなさんが「読みたい!」と思っていただけるのだろうか。それは読者の皆さんにお任せする。

 

何点か読んでいて思ったことをあげる。

まず、この精緻な文章を1956年に書き上げた筆者自身に畏敬の念を感じ得ない。愛についてこれほどまでに考え抜いた本を僕は他に知らない。特に愛の対象の箇所での「異性愛」の箇所は読んでいて心が震えるほどいい文章だった。

また、純粋に気になるのだが、もし今フロムが存命だとした時、LGBTのカップルの間でも父性愛と母性愛の視点から考察をするのだろうか。愛の種類が異なるとは全く思わないが、彼がどのように同性愛を位置づけるかが非常に気になるところである。

情報工学やバイオテクノロジーが発展していく中で、愛の形は分岐しつつあると思う。 その時代の中でこの本が果たす役割がもう一度見直されていくことを願って。